たい焼きは庶民のお菓子なので、その発祥は明らかではありません。

 麻布十番の老舗たい焼き店の創業者が発明したものという説や、三重県で生まれたものという説などがありますが、明らかな証拠はどこにもないからです。

 ところが、つい最近、発刊された本にたいやきの発祥について、明確ではないもののかなり確度の高いバックデータをもとに記載されていたので、ここで紹介したいと思います。

たいやきセピア
※今回の記事の写真は最後の書籍の写真以外すべてイメージです


■きっかけはNHKのテレビ番組「チコちゃんに叱られる!」

先に紹介すると、その本は2019129日に発行された『お好み焼きの物語』(近代食文化研究会著、新紀元社)です。

 

この本を知ったのは、年初め(201914日)に放送されたNHKの情報番組「チコちゃんに叱られる!」がきっかけでした。

最近人気の番組なのですが、ご存じない方のために紹介すると「チコちゃん」という5歳の女の子という設定の着ぐるみとコンピュータグラフィックを合わせて作ったキャラクターが司会をして、色々な知識をクイズ形式で紹介するという内容です。回答者がクイズの答えを間違うと、コンピュータグラフィックの「チコちゃん」の顔が怒った顔になり「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と怒鳴りつけるのが人気になっています。

 

その番組の中で「たい焼きはどうして鯛の形になったのか」というクイズが出され、お約束通り、「ボーっと生きてんじゃねえよ!」という結果になったのですが、正解として提示されたのが「鯛は食べられるものだから」というものでした。

取材VTRと再現VTRによると、たい焼きは明治42年創業の浪花家総本店の創業者神戸清次郎氏の発明と紹介され、俳優さんが演じる再現VTRは当初は亀の形や野球ボールの形のものも作ったが売れず、結局は食べられるものである鯛の形だけが人気になったというストーリーになっていました。

 

SepiaImage
※今回の記事の写真は最後の書籍の写真以外すべてイメージです


■これまでの発祥説の否定

 それに噛みつく形で意見を発信されたのが、この本『お好み焼きの物語』の著者である近代食文化研究会さんのツイッターです。

 この本は、お好み焼きの起源が江戸時代に発祥した「文字焼」にあり、その発展の中でたい焼きも生まれたとしています。ですから、浪花屋総本店の神戸氏の発明というのは不自然だということです。“噛みつく”と表現しましたが、本にまでまとめられているその内容は非常に説得力があるものです。

 

 実は、浪花屋総本店発祥説に異を唱えているのは、近代食文化研究会さんだけではありません。2007年に執筆されたらしい「たい焼き研究ノート1というサイトでは、「一般に信じられている浪花屋総本店の初代が最初にたい焼きを作ったとする情報は、浪花屋総本店を後継している経営者へのインタビュー記事だけしかない」と、たい焼き浪花屋発祥説について疑問を呈しています。

 

 実は、この「たい焼き研究ノート」というサイトは当店でも知っており、以前に「『およげ!たいやきくん』の誤解というブログ記事でも参考に取り上げさせていただいたことがあります。

 その際に、たい焼きの発祥が浪花屋さんではないとの指摘についても知っていたのですが、同業者への批判になりかねないこともあり、ブログ記事では大ヒットした『およげ!たいやきくん』のモデルについての部分のみを紹介しました。

 

 また、『文士・事物起源探究家 松永英明の絵文禄ことのは』というサイトでは、2009年に書かれた記事『「たい焼き100周年」はウソ!かもしれない(中間報告)』の記事で、浪花屋総本店の創業年である明治42年よりも前の明治39年にたい焼きが存在した可能性について触れられています。

 明治44920日の読売新聞の三面記事に「鯛焼の中毒五人」という記事が載っており、その中で食中毒を出したと言われた鯛焼屋が、“五年間も鯛焼を営み”としていることから明治39年には鯛焼屋が存在したことになるというのが根拠です。

 もちろん、記事中の証言が本当でない可能性もゼロではありません。しかし、このサイトでも指摘されていますが、明治44年時点で「鯛焼」の言葉が特に注釈もなく記載されていることは間違いありませんから、その時点で鯛焼は普通に知られるものであったはずです。今ほどメディアが発達していない時代ですから、それよりもかなり以前から鯛焼は世の中にあったと考える方が自然です。

 なお、記事中の食中毒については、鯛焼が原因と考えられたが、実はサバ中毒ではないかというオチになっており、鯛焼は無実だったそうです。

 

 この記事の内容からは、たいやきの発祥が何年で誰が考案したかはわかりませんが、少なくともNHKの番組中で紹介された内容がフィクションであることは明らかです。

 番組の担当が、ボーっとされていたのかもしれません。

 ただし、現存するたい焼き店の中で浪花屋総本店さんがいちばん古い店であることは間違いないようです。

 

並んでいるたいやきセピア
※今回の記事の写真は最後の書籍の写真以外すべてイメージです


■たい焼きの起源に関係する文字焼とは?

 NHKの話はさておき、たいやきの起源が記されている『お好み焼きの物語』の内容に戻ります。これ以降の記載は、基本的にこの本に書かれていることを抜き出してまとめたものですので、ご了承ください。

 

この本によるとたいやきとお好み焼きはある意味で同じものを起源としてできた食べ物だということです。それが江戸時代に発祥したらしい「文字焼」です。

「文字焼」は、熱した鉄板または銅版の上に小麦粉に砂糖を混ぜて水で溶いたものを流して文字や絵の形に焼いたものです。

 

1806年(文化3)の作と推定されている『職人尽絵詞』の中には、白い液体で鯛の絵のようなものを鉄板の上に描いている姿が紹介されているそうです。ただし、ここでは「鍋焼」という言葉で表現されていたようです。

さらに、1814(文化11)年の北斎漫画にも文字焼らしきものを焼く姿が描かれているのですが、「文字焼」の言葉が出てくるのは、さらに時が経った1827(文政10)年になるそうです。

文化文政期は江戸時代の中でも豊かな時期で、日本の人口増加が始まった時期でもあり、子供が増え、さらい江戸では小遣いを与える習慣ができたことで、子供相手に駄菓子を売る商売が発生したと見られています。現在まで続く飴細工なども同じ時代の発祥です。

文字焼は「寿」などの文字の形だけでなく、様々な絵柄が描かれました。『職人尽絵詞』にある鯛や亀、宝船などの形が人気でした。

 

この「文字焼」は「もじやき」ではなく「もんじやき」と読みます。現代でも「どら焼き」や「きんつば」を焼くための和菓子用の鉄板が付いた焼き台を「一文字」というのですが、このあたりの名残である可能性は高そうです。

なお、現在の「もんじゃ焼き」は、実は戦後にできたものということで、この文字焼の名前から何らかの影響を受けた可能性はあると思われますが、直接的にはつながっているものではないとのことです。

 

割ったところセピア
※今回の記事の写真は最後の書籍の写真以外すべてイメージです


■明治時代により高度化した文字焼

 江戸末期から明治時代になると、駄菓子屋の店頭で子供が自由に文字焼を焼いて食べるような提供方法も生まれ、一方で職人が作る文字焼はより高度に立体的な形を作るような発展をしました。さらには、亀の絵の線の部分を先に焼いて少し焦がした後に全体に溶液を流して仕上げるという、最近流行しているパンケーキアートのようなものが作られていたというから驚きです。その頃には中に餡を入れて焼いたものもあり、型こそないものの、現在のたい焼きにかなり近いところまできていたことがわかります。

 この時代にも鯛は人気の図柄のひとつでしたが、中には小麦粉の溶液に食紅などの着色料で色をつけてカラフルに焼き上げるものもあったそうです。

 

 江戸時代の「文字焼」は小麦粉と砂糖または蜜だけを使っていたのに対して、明治時代には造形が工夫され、さらには餡を使うことでバリエーションが増えました。その中のひとつ、「おかしわ」と呼ばれた小麦粉を焼いた生地で餡を巻いたものは、「あんこ巻き」の名称でお好み焼き店などで出されているものとほぼ同じものです。

 

ハシセピア

※今回の記事の写真は最後の書籍の写真以外すべてイメージです

■「亀の子焼」の登場、そして鯛焼へ

『東京の味』(角田猛)には、明治30年代に「亀の子焼」のブームがあったと記されているそうです。両面の金型を使い、粉が入った軽く黄色く焼いた皮に餡が入っているもので、現在のたい焼きにかなり近いもの、というより形が違うだけのものと言えそうです。さらに、『東京の味』の中には同じようなものとして人形焼と鯛焼についても記述されています。両面の金型の鯛の形のものがあったということは、一丁焼きのたい焼きがすでに作られていたということです。

 

 また、明治18年生まれの方の想い出話として、子供の頃の縁日に「桃太郎焼」なるものがあったとの記録もあります。「炭火で、桃の形をした鉄鍋があって、そこへうどん粉を卵でといて半ペラずつ焼く。その中にあんを入れて二つ合わせると桃の形になる。これは、今の鯛焼の元祖みたいなものである」とのことです。

「桃太郎焼」が何個ずつ焼いていたのかは不明ですが、この焼き方はたい焼きで言うところの「養殖もの」、つまり連型で焼く方法と同じです。年代を考えると一丁焼きがたい焼きの元祖の方法というのもやや怪しくなってきました。ただ、たい焼きとして広まったのは一丁焼きが先だということになります。

 

 時代背景として日清戦争、日露戦争が続いた時期であり、軍用のニーズから鋳物産業が飛躍的に発展すると同時にコストダウンし、庶民の暮らしの道具にも鋳物が使われるようになったことから、金型が普及したのだと推測されています。

 上に記したように江戸時代の「文字焼」では亀や鯛を象ったものが人気でした。しかし、上手く絵柄を焼くのは職人の腕次第です。金型があれば誰もが同じ形に、しかも「文字焼」では高度な立体の造型が簡単にできるのですから、画期的な発明だったと言えるでしょう。

 実際に一丁焼きのたいやきを焼いている当店の立場からは、「同じ材料と金型があっても焼き手によって味は全然違う」のですが、少なくとも外見の形は同じものができますから、短期に普及したのも納得できる話です。

焼き手セピア
※今回の記事の写真は最後の書籍の写真以外すべてイメージです 


■まとめ

『お好み焼きの物語』によると、江戸時代に小麦粉と砂糖だけの「文字焼」があり、時代を経て餡が使われるようになった。そこでは亀や鯛の形が人気であり、明治中期に鋳物技術が発展して金型で焼くようになった。こんな流れです。

「文字焼」について書かれた新聞や書物などはほとんど江戸・東京のものですから、地方都市の文献資料が東京より少ないことを差し引いても、たい焼きの発祥は東京、ということになります。

 当店では、全国の一丁焼きのたい焼き店について調査し、三重県に昔ながらの一丁焼きの店が数多く残っていることから三重県発祥説も捨てがたいと考えていたのですが、どうやら間違いのようです。

一丁焼きのたい焼き店は全国で108店 ~全国一丁焼きのたい焼き店調査~20175月)

「天然もの」と呼ばれる一丁焼きのたい焼き店は全国で133店 ~全国一丁焼きのたい焼き店調査2018の結果~20189月)

 

■『お好み焼きの物語』について

 タイトルからもわかるように、『お好み焼きの物語』はお好み焼きの発祥について書かれた書籍です。とかく大阪か広島かという議論がなされることが多いお好み焼きについて、その発祥が江戸の「文字焼」にあることをつきとめ、このブログ記事で紹介したように、そこにはたい焼きの発祥も関係していたということを明らかにされています。

 お好み焼きについては、現在のものになるまでにさらに面白い展開があるのですが、ここはあくまでのたいやき屋のブログですので紹介を控えます。たいやき部分だけでも、しっかりとした資料の裏付けを示しながら書かれてあり、間違いなく読み応えがあり面白い本ですので、ご一読をお勧めします。 amazonのページ


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 ※ビートたけしさんは帯でコメントされているだけです


 たい焼きに限らず、食べ物の発祥は記録に残らず、後の世から見るとどのように発祥して発展してきたのかわからないことがよくあります。もちろん人が作ったものですから、誰かが最初に作ったのは間違いないのですが、それが記録されていなかったり、広がる過程で違う人が発祥を主張したりするので、時間の経過とともにわからなくなるのです。料理のレシピは特許などの工業所有権で保護されないので、インターネット上に記録が残りやすい現代でもその傾向は変わりません。

 その中で100年以上も前のことについて、膨大な資料を調査された熱意と努力は素晴らしいもの、貴重な知見を得ることができたと感謝し、今回のブログ記事を締めたいと思います。



― 2019年3月29日 追記 ―

 このブログ(をお知らせしたツイッター)を見て、近代食文化研究会さんからお知らせがありました。

 現在、グルメサイトの「retty」で『たい焼き誕生史』を連載されているそうです。

 当たり前ですが、当店のブログよりはるかに詳しく、画像もたくさん使って書かれていますので、ぜひご一読ください。